畿内・西国街道の歴史

Ⅱ.ザビエルがみた16世紀の日本

[Ⅱ-1] 十六世紀中頃の摂津国

十六世紀中頃の摂津国

天文十八年(一五四九年)八月、イエズス会のザビエルは、コスメ・デ・トルレス、ジョアン・フェルナンデスらを伴って、鹿児島に上陸した。島津貴久がザビエルを謁見した時、若き日の島津義弘も天竺坊主の姿を物珍しく傍らから見ていた。

その後、山口を経て天文二十年一月、一行は泉州堺の湊に到着した。京に上り、皇室もしくは足利将軍家から布教許可を得るためである。

当時の湊の形状を少しは今に伝えている堺海港から、東へ八百メートルの位置にあるザビエル公園が、堺の豪商日比屋了珪の屋敷跡である。その屋敷から京まで「輿に乗り、馬に乗った侍達と従者を連れた著名な武士」が彼らを一行に加えてくれた。ただし十六世紀にイタリヤで描かれた武士達は「裸馬に乗った土人」であった。

当時の西洋人の地の涯に住む人々の姿とはこの域を出ることはなかった。

ザビエル達は一行の後を、りんごのキャッチボールをしながら歩いた。

堺で世話をした日比屋了珪も「著名な武士」もザビエル達の結果はどうなるか、初めから判っていた。しかし、「はるばる南蛮から波涛を越えてやってきたのだから、実際に王都をその目で見なければ諦めもつくまい」と出発の前に話し合っていた。

淀川の鳥飼の渡で、道のりの半分まで来たが、明日には王都に着けると、ザビエル達は期待に胸を膨らませていた。

京都は応仁の乱の末で、市中は一面の焼け野原となっていた。皇室の権威は失われており、足利将軍も市中には居なかった。ザビエルらは何も得るところ無く、山口へ帰っていった。

ザビエル達は摂津を通過して京と堺を往復したが、摂津の地で布教してもいないし、ましてやザビエルの肖像画が秘匿された千提村まで足を運んでもいない。

しかし、淀川べりの鳥飼の渡しから天王山や北摂津の山並に視線を向けたに違いない。その方向に安威村、千提村そしてその奥にルイス・フロイスが摂津のハイランド地方と紹介した高山も望めた。

その辺りにザビエルの伝えた教えに、最後まで誠実を尽くした人々が居たことをザビエルはもちろん知る由もない。

ここで摂津の人々にも大きな影響を及ぼしたイルマン・ロレンソについて語っておく必要がある。ザビエルは山口に戻った後、同年九月、豊後府内にポルトガル船が来航した知らせを受け、滞在二年三か月で離日した。しかしその前に出会った一人の盲目の琵琶法師が、その後の困難なキリシタン布教活動において、余人に換えがたい働きをすることになる。ザビエルとその琵琶法師の最初の出会いを想像してみたい。

辻に集まった人々を前に片言の日本語で説法をするザビエルがいる。その群を遠巻きにして、物影の隅からじっと聞き耳を立てる琵琶法師がいる。法師は薄汚れ、所々破けた袈裟衣をまとい、背中に丸い琵琶を背負っていたが、離れたザビエルの目に何を生業とする者か、奇異に映っていた。やがて群集は辻を立ち去ったが、琵琶の法師だけが残っている。歩み寄るザビエルは、法師の泥まみれの脚にどこかで転んだのか、干からびた血の跡が付いているのを見咎めた。ザビエルに出会うまでの琵琶法師・了西は、虐げられた者の一人として、いかに人に媚びて、その日を食べてゆくかを考えていた。

ザビエルに導かれた了西はその後、イルマン・ロレンソとなり、創成期のキリシタン教会の最も重要な柱と成るほどに人格的な変貌を遂げていった。

永禄十一年、ロレンソとルイス・フロイスは、織田信長の面前で、キリシタン宗門に反対の政僧日乗と宗論を戦わし、信長をおおいに感心させた。


日本史年表で一五五O年前後の出来事を拾ってみたい。

天文十五年(一五四六年)

武田晴信、村上義清と戦い敗れる。同、京都土一揆蜂起、幕府、徳政令を下す。

天文十六年(一五四七年)

細川晴元、足利義晴と義藤を攻め、義晴ら近江坂本にはしる。

織田信秀、松平広忠を攻め、広忠、子竹千代を質に今川義元をたよる。

天文十七年(一五四八年)

長尾景虎家督をついで越後春日山城に入る。

同、美濃斉藤道三、娘を織田信秀の子信長の妻とする。

天文十八年(一五四九年)

細川晴元、足利義晴、義藤を擁して坂本にはしる。

ザビエル、鹿児島に来る(キリスト教の伝来)

天文十九年(一五五〇年)

大友義鑑、家臣に殺される。

同、三好長慶入京し、足利義藤近江堅田に逃れる。

天文二十年(一五五一年)

三好長慶の将松永久秀、細川晴元の将三好政勝を相国寺に破る。

ポルトガル船、豊後に来航。ザビエル豊後を去り、インドへ帰る。


ザビエルコード 著:甲山 堅
2012年9月25日 第二刷 eブックランド社より著者の許可を得て転載

1992年、私(代表取締役 田近一泰)がバングラデシュにいた頃、インドのゴアに旅行しザビエルの遺体が安置されている教会に行ったことがある。ゴアの人々は、聖人(ザビエル)は日本からゴアに帰る途中船の中で死んだが不思議なことに聖人ザビエルの死体は、腐敗せずゴアに持ち帰られ爾来、聖人としてインド ゴアの教会に安置されていると述べていた。(ヒンズー教の国でインドでもゴア州はキリスト教徒が現在でも多数派との由)

1552年に亡くなった聖人ザビエルの遺体が初めて公開されたのは1782年とのことである。最近では10年に一度インド ゴアの教会で公開され、今年(2014年)は、11月22日より来年1月4日まで約1カ月半17度目の公開を迎えるそうである。

16世紀の日本でキリスト教徒またキリシタン大名が、これほど多かった(※資料参照)とは。また今回の調査で私の先祖が何らかの形でキリスト教と関係がある可能性があるのが分かったのも驚きであった。

PAGE TOP ▲